第8大隊
The Period of F-5E/F
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8th AIR GROUP
花蓮空軍基地は1980年代まで第828戦闘機聯隊(828th TFW)が有り,、その傘下に第8大隊(8AG)を擁していた。従って、以前は828th TFWの鷲のマークをつけたF-5Eが見られたが、1991年7月以降、東部の2つの基地と新たに花蓮基地に併設の形で建設が進められていた佳山基地の運用を統合する形で”東部指揮部”が創設され、この傘下に第7、第8大隊が組み込まれた。佳山基地は花蓮空軍基地のランウェイに並行する形で北側に滑走路が造られていたが、前頁でもご覧いただいた背景の山の裾野を大きく刳り貫いて 100機以上の戦闘機を収納できる地下格納庫を持つ基地である。西側の基地が、攻撃を受けた際、ここに収納できるようになっており、その構造は台湾空軍の最高機密に値するものと想像できる。
 因みに第828聯隊はF-5A/Bの受領とともに1982年に設立した新しい聯隊であった。
1990年代の花蓮空軍基地の主力は、約60機F-5E/Fを擁する第14.・15・16の各飛行中隊。それに第8大隊直属だったと思われるF-5B地上攻撃機数機を有していた。
台湾東部の花蓮基地をベースとする彼らは、大陸に直接面する基地での運用にも精通する為に 時々CCK 新竹などの西部海岸の基地に移動訓練に訪れた。1990年代に入ってからは、特にF-104Gの稼働率が急速に悪くなっていた為 F-5E/Fの実質的役割も大きくなっていたのである。写真は、20機単位の移動訓練で新竹基地を訪れた際の訓練の模様である。マニアにとっては 絶好のシャッターチャンスとなった1週間となった。
台湾でこのF-5Eが撮れれば何時も満足して帰国できた。去り行くF-104Gと共に台湾の防空の主力であったF-5であるが、撮影環境の悪さから時間をかけてじっくり撮影できるチャンスが少なかった。新竹基地に移動訓練してくれた為、遥々東海岸の花蓮基地まで行かないで撮影できた事もラッキーである。しかし サイドワインダーのキャプティブ弾ではあるが、ミサイルをつけたF-5Eは何時見ても迫力がある。上の写真は、尾翼の8AGのインシグニアが書きかけであり、竜の頭しかないところが面白い。台湾のマニアは、ほとんどKR-64 PKR-64を使っていたが 私はKR-64の他 白黒のテクニカルPANを主として使っていた為、地元航空マニアから結構珍しがられた。彼らから現像方法などを聞かれ機材の購入などを頼まれることも多かったが、現在はそのテクニカルPANも無い。
Insignia of 8AG
Eastern area commander of CAF
第8大隊は、1936年江西省南昌で創設された爆撃飛行隊であった。当初は時代物のソビエト製爆撃機などを所有していたが、1945年ごろから米軍の新鋭B-24を受領して、内戦における共産軍の爆撃任務などを遂行していた。後に内戦敗北で危なくなってきた大陸の基地を離れ、台湾の新竹基地に移動し B-25・PB4Yなどの爆撃機を米軍から受領して大陸への渡洋爆撃を行ってきた。大陸との攻防戦が一段落すると渡洋爆撃もなくなり、爆撃機の存在自体が次第に意味を亡くしていった。1982年F-5A/Bを受領して 3個戦闘機中隊を擁する飛行大隊として花蓮基地で再生された。そして 1986年からF-5E/Fに換装されて 第1・第4・第5・第7・第8の5つのF-5E航空団の1つとして活躍してきたのである。
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Insignia of 14th TFS
第14戦術戦闘機中隊

1935年9月に創設された歴史のある飛行中隊で、当初はイタリア製のフィアットBR-3爆撃機を配備していた。1937年に日中事変が勃発すると日本軍への爆撃任務についている。しかし 性能の良い日本軍航空部隊に手痛い被害を被り、1944年には部隊は一旦解散している。1982年にここ台湾の花蓮でF-5A/Bを受領して戦闘機中隊として復活した。シスタースコードロンの15.16中隊と違い、転換訓練を受け持つ飛行隊として多くの若いファイターを育ててきた。当時の8大隊の中で唯一F-16A/Bに換装して訓練担当部隊として活躍している中隊である。14の文字にレオのような白毛のライオンをマーキングとした覚えやすい部隊である。T-38を40機リースした際は、彼らが高等飛行訓練を実施している。